自治が裁かれる

8月4日付け東京新聞1面の記事

「守った景観 自治か独裁か 元国立市長 

求められた賠償3000万円」 

www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012080402000095.html

「政治家は、選挙を通じて託された民意を政策として実現することが求められる。ただ多数の同意はあっても、不利益を感じる人もいる。政策実現のため生じた不利益は、住民全体で責任を負う、つまりは税金で補填(ほてん)していくのが、民主主義の本来の姿のはずだ。」まったく同感。

政策変更による既存不適格は常に生じるが、多くの人が薄く広く不利益を受ける場合は受け入れられても、特定業界が狭く大きく不利益を受ける場合は業界をあげて抵抗し、事業者が反対運動の市民や行政、首長を訴える訴訟にも発展する。国立景観訴訟はそんな性格をもっていた。事実、損害賠償訴訟に勝ったマンション業者が国立市から支払われた3123万円をそのまま国立市に寄附していることから、訴訟の目的が金銭的賠償ではなく市長の政治的行動を罰することだったのがわかる。

7月26日のシンポジウム「国立景観訴訟と首長の責任」 m-fujiwara.net/schedule/726 は、上原公子(ひろこ)国立元市長をはじめ熱血ボランティア弁護団などの話が大変おもしろく、市民が自ら育て守ってきた景観や住環境などの生活上の権利を守ろうとするとき、どのように自治し、首長を選び支え、行政や議会、司法とどう関わればいいかなどを深く考えさせてくれる有意義な内容だった。

2002年からのいわゆる国立景観訴訟は、1審の東京地裁が、「一定の基準を互いに遵守し財産権の自由を自制することで生み出された景観利益は法的保護に値する」として、20mを超える部分の撤去を命ずる判決を出したことで一躍有名になった。一連の裁判では、まず市民が大学通りの景観を破壊する14階建てのマンション建設反対を訴え、上記の衝撃的判決を得たが、2審の高裁で覆され、最高裁では、「周囲の景観の調和を乱す点はなく、違法建築ではなく、社会的に容認された行為としての相当性を欠くとは言えない」ということで結局撤去はされなかった。しかし、良好な景観に客観的価値を認め景観利益という概念が確立される社会的エポックとなった。

その後のことはあまり知られていないが、事業者の明和地所が国立市と市長を相手取り、20mの高さ規制をした地区計画条例の無効と営業妨害による損害賠償を求めて提訴し、条例の無効は却下されたが、損害賠償は確定してしまった。理由は自治体と首長が適法な営業活動を妨害する目的で、中立・公平を逸脱し、社会通念上許されない程度に私人の営業活動を妨害した場合、不法行為が成立するというもの。

この判決により国立市は3123万円を明和地所に支払ったが、前述のように明和地所は金銭請求は本心(目的?)ではないとして寄附(返金?)し、一件落着と思われた。ところが、問題はさらにその後のこと。市長交代後一部の住民が市に対して上原元市長に3123万円を請求せよいう住民訴訟を提起し、先ほどとほぼ同じ理由に加えて急激かつ強引な施策の変更、異例かつ執拗な手法により不法行為とされ住民勝訴となったのだ。これを受けて昨年、国立市が上原公子さん個人に対して3123万円の支払いを求める訴訟を提起するに到り、現在係争中ということはほとんどの方が知らないと思う。

訴訟に関する法的な事項や市民活動については以下の書籍に詳しいのでぜひご一読を。

「国立景観訴訟—自治が裁かれる」 五十嵐敬喜 上原公子 編著  公人の友社刊

次回、第4回公判期日は 10月25日(木) 11:30 東京地裁703号法廷(場所は変更の可能性あり)

全国から集まった40人近いボランティアの大弁護団が支える。毎回何人かの弁護士さんが熱弁をふるう姿は普通の行政訴訟では見られない光景。傍聴をお勧めします。

それだけ今の日本は異様な状態、まさに自治が裁かれるときなのだと思う。しかし、対立する候補者を押さえて選挙で選ばれた市長=政治家の責任の取り方は裁判で決めてよいのか。常に意見が分かれる民主主義の中で、反対派と闘うことを期待されて選ばれた市長が期待を裏切らない働きをしたら損害賠償を請求されるのではたまらない。政策変更が抜本的であればあるほど既得権者の抵抗が強くなるのだから。政治家の政策に対する責任追及は議会での反論、選挙、リコールなど政治的手段で行われるべきで、個人が不法行為として裁判で裁かれるにはそぐわない。

あの美しい国立市の景観を守る市民活動から少数会派議員となり、さらに市長となった上原さんは、逆風の中で議会とも緊迫した関係だったが、市民主権の政治、議会改革、市民選挙をめざす私たちとしても考えておかなければならないテーマだ。

7/26後半の パネルディスカッションは、社会学者の宮台真司さんなどを交え、さらに様々な角度から掘り下げ、充実した共感できる内容だった。佇まいも風情もない、ただ安心安全便利快適をやみくもに求めることがまちをあられもない姿に変えてしまった。もちろん安全や快適が悪いわけではなく、どうやって安全や快適を実現するかの方策が問題。落ち葉で滑ると危ないが掃くのが面倒だから木を伐れ、清掃や剪定の費用が無駄だから街路樹を廃止しろ、安全のために道路をわかりやすく赤と緑に塗り分けろ、美しい石垣の風情を台無しにするガードレールを、などなど偏った効利主義の「クレージークレーマー」を地域が包括できなくなったことが、景観を守った市長に売れなくなったマンションの弁償をさせるディベロッパーや市民を生み出してしまったとも考えられる。地域の空洞化と言われるが、地域社会がそのような利己的な要求を「何をバカなことを・・・」と一笑に付し淘汰していく力を失ってしまったような気がする。 以下に当日の様子の動画

www.youtube.com/watch?v=IJWqv8li6wc

余談だが、確かにガードレールである程度安全は守れ、大型車進入へのバリアとなりえるが、そう短絡せず地域特有の配慮をもりこんだ制度ができないだろうか。折しも今、景観行政団体をめざして計画中で、追い追い条例も改定されるだろうし、道路法改正で道路構造令が委任条例化されつつある。行政と議会が本腰を入れて住民の方を向いて施策すれば、ガードレールなしに大型車を入れない工夫もできるだろう。もっと踏み込めば、車両制限令も独自条例で代替できる方向にもっていけるかもしれない。夢のような話でもないと思うが。

現在、景観だけでなく町の文化資産や住環境を守るために司法的救済を求める市民はたくさんいて、建築確認や開発許可を争う行政訴訟や、ディベロッパーに減築や計画中止を求める訴訟は後を絶たない。自治体は紛争防止の目的で高さ制限などを施策しているが、事業者からの営業の自由や財産権侵害を論拠とする提訴を恐れてなかなか市民の求める実効性のある施策が打てない。市民側からも業者側からも裁きを求められる裁判所だが、地域の実態、政治のダイナミズムについて行けない裁判官が貧しい直観と狭い法解釈だけで裁くのでは、景観も住環境も到底守りきれない。逆に事業者はそこを狙って、本来は住民の生活を守り向上させるための政治的な判断であるまちづくり施策を牽制する目的で司法の場に持ち込むのかもしれない。

文京区でも主にマンション建設をめぐる建築紛争が多数あり、その多くは地域のスケールに合わない大きな計画に住民が反対しているものだが、国立の景観利益のように市民自治で新しい法的利益を勝ち取れることは全くなく、道路の幅や勾配の条件に合わない開発許可や、建物や土地の形状を詐称するなどで安全が確保されない建築確認などの取消を求めて住民が提訴しても、受忍限度論にも到らずほとんどが原告不適格でシャットアウトされている状況だ。

低層住居地域はこのくらいの道幅でこくらいの規模という社会通念がかつてはあったが、容積率などという概念が導入されてからはとにかく目一杯容積を稼いで利益を上げるという事業者があまりにも多い。安全面で課題の多い開発に許可を与えてしまう行政、周変地域の安全が要件にない開発許可制度、公告もなく秘密裏に建築確認がおろせる制度などさまざまな問題が絡み合い、そう簡単ではないようだが、訴訟がふえると住民・行政・事業者すべてにとって負担が重くなる。地域をどうしたいのか、まちづくり条例は本当に必要ないのか、膝詰めで考える必要が実感されるこの頃だ。

最後に「自治が裁かれる」の本文から大好きなフレーズをお裾分け

「大学通り、これだけ緑がたっぷりとってあると、 ほんとにリラックスする。
 緑は単に緑というだけではなく、季節、木陰、癒し、風、歴史、鳥や昆虫などなど いろんなイメージ、言葉と結びつき、匂い、肌触りや音など、 人間の直観や体感などとも切り離せない。 木漏れ日なども命を実感させてくれる。」

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